bleibt_laenger’s blog

日独比較文化などなど

ドイツにおけるシャイな人達?

以前のブログ内容で述べた、「ドイツの国語の授業では発言能力が成績に反映される」という事を聞いて、ビックリしていた知人がいた。彼は筆者に「じゃあ、ドイツではシャイな人達はいないの?いるのであればどんな感じの人達なの?」と聞いてきた。なるほど、いい質問である。英語の“shy“に相当する単語はあるが、よく使われるのは“schüchtern“(シュヒタン)という単語である。訳としては、「引っ込み思案の、恥ずかしがりやの」で間違いなく、ドイツに住む日本人に対して、女性にも男性にもよく使われる言葉である。それとは別に使われる言葉としては”introvertiert”(イントロヴァーティーアト、内向的な)があり、“schüchtern“が、状況や男女関係などで使われることが多い一方で、“introvertiert“は性格そのものを表す。さてシャイなドイツ人はいるかと言うことだが、異性に対してシャイな人はいる。だが、「シャイな人」像がドイツと日本では異なるのではないかと筆者は思うのだ。

 

「シャイな人」も意見を言う


筆者個人の例で言えば、ドイツ人でシャイな人に実際に何度か会ったことはある。究極的にいえば日本とシャイな人の振る舞いに大差はないが、「知らない人でも質問を受ければ基本的に答える」という点で日本と異なる。それはやはり、知らない人とコミュニケーションを取ることに「恥ずかしい」「怖い」とか「不安」などの気持ちが日本のシャイな人達と比べて少ないためだと思っている。日本にいるシャイな人達には筆者が思うに大きく分けて二通りいて、対人という行為に不安を感じてしまう人と「コミュニケーションすること自体」に不安を感じてしまう人がいるのであろう。前者に関してはかなり心理的な問題であるが、後者に関しては、コミュニケーション能力や経験値が低いというよりも「コミュニケーションという行為が起こす自分や相手の感情の乱れ」という不確定要素に不安を感じているのではないだろうか。先に述べた「恥ずかしい」「怖い」とか「不安」の感情を乱す要素のうち、「恥ずかしい」という感情は、少し特別なものである。例えば、学校で先生から受けた質問に自分で手を挙げて堂々と間違えた答えを皆に言う。きっと彼/彼女は周囲から笑われてやや恥ずかしい思いをするだろう。そうすると恥ずかしい思いをしたくないので、手を挙げて発言すること自体に恥ずかしさを覚えていき、やがて発言そのものに恥ずかしさを覚える。しかしドイツでは授業で発言を強制される機会が多いので、発言すること自体に恥ずかしさを覚えることは日本と比べると少ない。これは筆者の偏見でもなんでもなく、多国籍な集まりで会議を行なった場合、ほぼ日本人以外は、求められていなくても自分の意見をいつでも言える心構えを持っている。その意見が全く的外れなものであっても、恥ずかしさなどはない。


恥ずかしがることによる周囲への甘え


日本でシャイな人達には恥ずかしいという態度で周囲に甘えているように思うことがある。「恥ずかしいから出来ない」とは日本でよく聞くが、ドイツではまず聞かない。「恥ずかしい」という言葉の訳は“peinlich „(パインリッヒ)だと思うが、この言葉は起こった事象に対する言葉であって、行動しない理由では使われないように思う。つまりドイツでは、恥ずかしいからではなくて「自分がしたくないからしない」と大抵の場合なるだろう。何が言いたいかというと、「恥ずかしいからできない」という行動様式を何回も繰り返すと、いざ必要な時に何もできなくなる危険性があるのだ。つまり、貴方の行動様式を悪い意味で消極的にするのである。なるほど、日本では察してくれる人もいるだろう。ただ他所の国ではどうか。あなたが長い列で何かを待っていた時、頻繁に割り込みを受けたら、「外国語を話すのが恥ずかしいから文句を言う事は出来ない」と思うのだろうか?恥ずかしいから道に迷っていても人に聞かないのだろうか?恥ずかしいから、皆が挨拶でハグしても-自分も皆と同じにしたくても-よそよそしく日本式の挨拶を異性の友人にしてしまうのだろうか?貴方が心の中でしたいと思う言動が明らかに誰に対しても迷惑となる場合でもない限り、貴方は恥ずかしいという言葉で、自分が勇気がなくて出来ないことを誤魔化しているだけなのではないか。シャイであることは、恥ずかしいから出来ないことの言い訳にするべきはない。「シャイな日本人」というドイツ人の評価は、外国語がうまく出来ないという事情を除けば、「メンタルが弱く自分の思いを相手に明確に伝えられない」という舐められた評価だと、ドイツに来て数年後、ようやく気付いたのであった。