bleibt_laenger’s blog

日独比較文化などなど

イタリア人男性の行動を見て思うこと

いつもドイツばかりなので、今回はイタリアについて語ってみたいと思う。イタリア人について話す時、筆者は以下の話をたまにする。よく日本女性が、ローマで熱情的なイタリア人男性に声を掛けられてどこかに連れて行かれそうになったりするという話が昔から冗談半分、実話半分であるが、実はドイツ人女性もよく声を掛けられ、場合によっては舞い上がってしまっているのである。というのも、ドイツではまずナンパという行為を良しとしないので、そういう行為自体が大通りなどであまり行われない。しかしイタリアは違う。もちろんナンパ目的もあるが、主観的に美しいと思う女性を褒めそやすことが文化の一部なのだ。筆者は以前から関心のあったイタリア人男性の行為、「知り合いの女性を可能な限り下心なく誉めそやす」ことが、一種の社会的要請なのかどうかを(北部に住む)イタリア人に確認したことがある。なんと答えは“Si”(イエス)であった。

 

「今日も綺麗だね」と言う文化


彼はこんな例を出す。例えば、貴方が男性の学生だったとしよう。そこに知り合いの女性(やや高慢なタイプ)が通りかかる。全く好みではないのに関わらず、貴方は彼女が通りかかる時にこう言わなくてはならない。「やあ、アガータ(仮名)。髪型変えたの?今日も綺麗だね。」言われた女性の対応は、だいたい二通りである。「チャオ、マッシモ(仮名) 。ありがとう。ところで週末何するの?」等の好意的な反応。一方で、もしこのアガータがマッシモに全く興味がない場合、「無視」もあり得るのだ。アガータにとってはこのような興味のない男性からの褒め言葉は、「自分が綺麗であることの多くの証左の一つ」であり、あえて回りくどい例えをすると、日本人がご飯を食べる時にたまに使う振り掛けぐらいの重要性しかない。イタリア人女性側では、好きでもない男に「今日も綺麗だね」と言われる事に耐えなければならないが、露骨に嫌がるイタリア人女性は少ない。嫌がられるのは、揶揄として言ったり、明らかに誇張している場合だけである。一方で男性であるマッシモの辛いところは、アガータに友人としてすら本来1ミリも興味もない場合でも顔見知りであるという点だけで「今日も綺麗だね」と言わなければいけない所だ。繰り返すがこれは社会的要請であり、究極的には貴方はそれをしないという選択肢もあるが、これをしないと「イタリア文化を理解しない外国人かな?」と思われてしまうのも面倒くさい事である。それでもこの女性を褒めそやすという文化は、悪くないアイデアである。女性が笑顔になるだけで社会は明るくなるだろう。

 

ところで女性は属する文化圏に関わらず、男性を自然と褒めることが出来る一方で、イタリア人男性とは異なり、日本人男性もドイツ人男性も女性を日常的に誉めそやすことが少ない。日本においては特に「惚気はいらない」とか、誉めそやすとすぐ「下心のあるアプローチだ」と他者に思われてしまいそうである。他者をあれほど尊重する日本の文化は、こと女性を褒める事に関しては極めて頼りないのは何故なのか。

 

「貴方の周りを貴方の行動で変える」

 

こういうことを言うとドン引きしてしまう人がいるかもしれない。気持ちはよくわかる。「貴方が変われ」とか「明日からこうしろ」とか見知らぬ第三者から言われることほどイライラすることはない。しかし一方で読者である貴方にはよーく考えてほしい。仮に貴方がサッカー選手で、サッカーの試合をしている時、貴方のチームメイトや対戦相手は「貴方の動きに応じて常時戦術を変化させている」ということ、つまり「貴方の動きは大なり小なり味方や敵に“必ず“影響を及ぼしている」という至極当たり前の事実があることを。したがって貴方がどこかに所属している限り、貴方は貴方の周りに良くも悪くも影響を与えている。そこで下心なく女性を誉めそやす文化が良いと感じたら、明日から始めてみてはどうか。(あくまで家族や友人、そして知り合い限定で) 変な目で見てくる人もいるかもしれない。でもきっと好感を持ってくれる女性もいるだろう。その好意は、貴方の見た目がよほど良くない限り異性としてではないだろう。だから、あくまで無償の奉仕の心で、見返りを期待せず下心なく行えば、貴方に対する他の人の印象を変えることが出来る。これに気づいたのは、「ドイツの社会的要請」で行っている「女性を優先して扉を開ける」という事を、無意識に日本で筆者がしていた時に、日本人女性の同僚が感動していたことがよくあったからである。ちなみに、この「女性を優先して扉を開ける」事をしない男性はドイツ人女性から総スカンを食らうことを覚えていて欲しい。


話をイタリアに戻すが、イタリア社会は、そういう意味で日本の「他者への尊重」がやや女性側に傾いていると言えるかもしれない。この文化は比較的最近のものなのか、歴史的なものなのかは筆者では見識不足でわからない。いずれにせよ、社会が良しと思っている(少なくとも表面上)ことが重要である。日本、ドイツ、イタリアの社会的要請を俯瞰した時に思うことは、貴方がやろうとさえすれば、貴方の今いる環境を変えられるということだ。無理して変える必要もないという意見もよくわかるが、そこは貴方の本当の心に従って欲しいものである。