bleibt_laenger’s blog

日独比較文化などなど

貴方は貴方の研究が足りない。

ドイツの哲学者カントが唱えた概念に「物自体」というものがある。素人の筆者では説明が下手になるが、例えば貴方の目の前にいわゆるリンゴがあったとして、その目の前の物体をリンゴとしているのは、貴方が普段行っている「物を判別する能力で判別している(=認識)」ためであって、「本当の目の前の物体」(=物自体)は、形も色も違うものかもしれないが、貴方が持つ「物を判別する能力」ではそれを捉えることができないんですよ、という話だ。まあ、何言っているか分からない方にものすごく乱暴に言うと、「目の前にある物体の究極的な原型形状」とでも考えてもらえばよい。ただ、それが本当に存在するかどうかは不明ではあるが。


これをいわゆる筆者や貴方自身に当てはめてみると『私自身』となる。『私自身』とはなんであろうか?そんなものはあるのだろうか?

やはり筆者や貴方では『私自身』を捉えらないのであろうか?このような問いは自己分析みたいなことと貴方は思うかもしれない。まあ似ているといえば似ているがちょっと違う。筆者はこのブログの読者である貴方が普段どんな風に過ごしているのか全くわからないので、筆者に置き換えて例え話をしてみよう。


心の対話 - もう一人(あるいは二人の)筆者


筆者を筆者たらしめているのは色々な要素がある。外見であったり、考え方であったり、所属であったり、住所であったり、趣味であったり。ただ、筆者が筆者であるのに重要な一つは、心の声だ。

「こうしたい、ああしたい。こう思う、ああ思う。」などと心の声が筆者には常にあり、その良し悪し(妥当性)をその都度その都度、もう一人の自分と決めている。筆者が車で渋滞に巻き込まれたとしよう。筆者の心の声はいう。仮に心の声が二人で構成されていたとして、それを「私A」と「私B」と名付けることにする。

会話例1

私A「渋滞だ。別の道の方が早く目的につくかも。」

私B「別の道は走り慣れてないし、天候不順だからもっと遅くなるかも。」

私A「(私Bに説得されて)そうだな、渋滞だがよく知るこの道に留まり安全運転でいこう。」

こんな感じの会話を何か判断が迫られる際に筆者は心の中で行っている。


この「私A」と「私B」を分析すると、Aはやや本能の声、Bはやや理性の声のような印象を持つ。では、さらにくだけた内容にしてみよう。

会話例2

私A「今、チョコチップシフォンケーキがすごく食べたい。」

私B「砂糖はダメ。おなかの調子がすぐ悪くなるでしょ。」

私A「そうだよね。」

このような筆者の例だとあくまで本能と理性が心の中で議論しているような感じになるのだが、実際の『私自身』は、この「心の中の二人の対話」聞いている「別の登場人物」かもしれない。

この「別の登場人物」は心の声を発しないので、本当にいるかどうかは分からないし、認識できない。一方で、普段は「私A」と「私B」が統合されたものを筆者は『私自身』と思い込んでいる。

貴方も筆者と同じように心の声を聞いているのだとしたら、貴方は「貴方A」と「貴方B」が『貴方自身』であると思い込んでいないか?貴方は「貴方A」がいつも同じように本能的な事しか言わないと決めつけていないか?「貴方B」は本当にいつも理性的な事しか言わないのか?

何が言いたいかというと、本当は「貴方A」の声がの方が理性的な声であって、「貴方B」はただ臆病なだけではないのかということだ。前回のブログで述べたことにつながるが、ある行動を起こそうとする時、あなたが「貴方B」の声を聞いて、その行動を取りやめたのなら、

 

”「貴方B」の心の声は、理性の名を借りて臆病な自分を誤魔化している”

 

可能性があるのである。

それでも「貴方B」が理性の声を代弁していると続けて仮定しよう。よく考えてみると「貴方B」は行動を抑制することが多い。だがこの抑制という機能のためには何らかの理由付けや基準が必要で、それは外部のルールや自分の経験則と言える。貴方が衝動的に何かを行いたいと思っても、それが社会のルールに照らして良くない事は「貴方の心の中で抑制」されなければならないからだ。

従って、「貴方B」が「貴方B」たらしめているものは、実は「貴方の経験」であったり「外部のルール」なのである。

つまり、「貴方B」は固定した考えをもっているのではなく、状況や時間に応じて理性の声らしき内容を変化させているのだ。となれば、もし貴方が「貴方B」の方針にいつも従っているとしたら、外の社会のルールや貴方自身の経験則に強く影響を受けた「抑制機能」が「貴方B」であるかもしれないということだ。

貴方の心の声(この場合は、理性の声を代弁している「貴方B」)は、実は『貴方自身』ではないかもしれないのに、心の声に従っていると貴方は思い込んでるかもしれないのである。


限界を決める「貴方B」


究極的に言えば「貴方B」は世間の声かもしれない。世間の声は貴方自身の心の声であるとして、自分があたかも理性的判断をしているかのごとく、出来ないこと、しないこと、言うべきでないことを「貴方A」に正当化していくのだ。「貴方A」が「宇宙飛行士になりたい」と思ったとしよう。あなたは30歳を過ぎており、ただの会社員なので、できるわけないと「貴方B」は言う。いや、「貴方B」だけでなく、貴方の周囲の実際の人もそういうだろう。「貴方A」が「会社を興したい」と思ったとしよう。「貴方B」は止めた方がいいと全力でリスクを列挙してその思いを否定する。上の例もどちらかといえば、失敗するだろうと容易に思われるもので、失敗の確率は高いであろう。

ここで思いだして欲しい。

本当の貴方は「貴方A」なのか「貴方B」なのか、あるいは「別の登場人物」なのかということを。

一般にリスクがあると言われている事は、まわりが本人に失敗してほしくないと願うから「リスクがある」と言われているのではなく、成功してほしくないという周囲の人の思いが、理性の声として「リスクがある」としていると筆者は思っている。

何故かというと貴方がある目標を設置しようとする時、その目標実現度にリスクがあっても、動きだせば、目標実現する可能性は1%以上になるが、動きださないと「0%」のままだからである。筆者は「貴方」ではないので、貴方がある目標を断念しようと止めようがない。だが、何が貴方自身の心の声なのかは一度研究してみてはどうだろうか?

貴方は「貴方自身」のコントロールをすでに失っていて、「貴方B」だと思い込んでいる「世間の声」に、貴方の大事な物事の判断権限を譲り渡しているかもしれないのである。