bleibt_laenger’s blog

日独比較文化などなど

イタリア人男性の行動を見て思うこと

いつもドイツばかりなので、今回はイタリアについて語ってみたいと思う。イタリア人について話す時、筆者は以下の話をたまにする。よく日本女性が、ローマで熱情的なイタリア人男性に声を掛けられてどこかに連れて行かれそうになったりするという話が昔から冗談半分、実話半分であるが、実はドイツ人女性もよく声を掛けられ、場合によっては舞い上がってしまっているのである。というのも、ドイツではまずナンパという行為を良しとしないので、そういう行為自体が大通りなどであまり行われない。しかしイタリアは違う。もちろんナンパ目的もあるが、主観的に美しいと思う女性を褒めそやすことが文化の一部なのだ。筆者は以前から関心のあったイタリア人男性の行為、「知り合いの女性を可能な限り下心なく誉めそやす」ことが、一種の社会的要請なのかどうかを(北部に住む)イタリア人に確認したことがある。なんと答えは“Si”(イエス)であった。

 

「今日も綺麗だね」と言う文化


彼はこんな例を出す。例えば、貴方が男性の学生だったとしよう。そこに知り合いの女性(やや高慢なタイプ)が通りかかる。全く好みではないのに関わらず、貴方は彼女が通りかかる時にこう言わなくてはならない。「やあ、アガータ(仮名)。髪型変えたの?今日も綺麗だね。」言われた女性の対応は、だいたい二通りである。「チャオ、マッシモ(仮名) 。ありがとう。ところで週末何するの?」等の好意的な反応。一方で、もしこのアガータがマッシモに全く興味がない場合、「無視」もあり得るのだ。アガータにとってはこのような興味のない男性からの褒め言葉は、「自分が綺麗であることの多くの証左の一つ」であり、あえて回りくどい例えをすると、日本人がご飯を食べる時にたまに使う振り掛けぐらいの重要性しかない。イタリア人女性側では、好きでもない男に「今日も綺麗だね」と言われる事に耐えなければならないが、露骨に嫌がるイタリア人女性は少ない。嫌がられるのは、揶揄として言ったり、明らかに誇張している場合だけである。一方で男性であるマッシモの辛いところは、アガータに友人としてすら本来1ミリも興味もない場合でも顔見知りであるという点だけで「今日も綺麗だね」と言わなければいけない所だ。繰り返すがこれは社会的要請であり、究極的には貴方はそれをしないという選択肢もあるが、これをしないと「イタリア文化を理解しない外国人かな?」と思われてしまうのも面倒くさい事である。それでもこの女性を褒めそやすという文化は、悪くないアイデアである。女性が笑顔になるだけで社会は明るくなるだろう。

 

ところで女性は属する文化圏に関わらず、男性を自然と褒めることが出来る一方で、イタリア人男性とは異なり、日本人男性もドイツ人男性も女性を日常的に誉めそやすことが少ない。日本においては特に「惚気はいらない」とか、誉めそやすとすぐ「下心のあるアプローチだ」と他者に思われてしまいそうである。他者をあれほど尊重する日本の文化は、こと女性を褒める事に関しては極めて頼りないのは何故なのか。

 

「貴方の周りを貴方の行動で変える」

 

こういうことを言うとドン引きしてしまう人がいるかもしれない。気持ちはよくわかる。「貴方が変われ」とか「明日からこうしろ」とか見知らぬ第三者から言われることほどイライラすることはない。しかし一方で読者である貴方にはよーく考えてほしい。仮に貴方がサッカー選手で、サッカーの試合をしている時、貴方のチームメイトや対戦相手は「貴方の動きに応じて常時戦術を変化させている」ということ、つまり「貴方の動きは大なり小なり味方や敵に“必ず“影響を及ぼしている」という至極当たり前の事実があることを。したがって貴方がどこかに所属している限り、貴方は貴方の周りに良くも悪くも影響を与えている。そこで下心なく女性を誉めそやす文化が良いと感じたら、明日から始めてみてはどうか。(あくまで家族や友人、そして知り合い限定で) 変な目で見てくる人もいるかもしれない。でもきっと好感を持ってくれる女性もいるだろう。その好意は、貴方の見た目がよほど良くない限り異性としてではないだろう。だから、あくまで無償の奉仕の心で、見返りを期待せず下心なく行えば、貴方に対する他の人の印象を変えることが出来る。これに気づいたのは、「ドイツの社会的要請」で行っている「女性を優先して扉を開ける」という事を、無意識に日本で筆者がしていた時に、日本人女性の同僚が感動していたことがよくあったからである。ちなみに、この「女性を優先して扉を開ける」事をしない男性はドイツ人女性から総スカンを食らうことを覚えていて欲しい。


話をイタリアに戻すが、イタリア社会は、そういう意味で日本の「他者への尊重」がやや女性側に傾いていると言えるかもしれない。この文化は比較的最近のものなのか、歴史的なものなのかは筆者では見識不足でわからない。いずれにせよ、社会が良しと思っている(少なくとも表面上)ことが重要である。日本、ドイツ、イタリアの社会的要請を俯瞰した時に思うことは、貴方がやろうとさえすれば、貴方の今いる環境を変えられるということだ。無理して変える必要もないという意見もよくわかるが、そこは貴方の本当の心に従って欲しいものである。

貴方は貴方の研究が足りない。

ドイツの哲学者カントが唱えた概念に「物自体」というものがある。素人の筆者では説明が下手になるが、例えば貴方の目の前にいわゆるリンゴがあったとして、その目の前の物体をリンゴとしているのは、貴方が普段行っている「物を判別する能力で判別している(=認識)」ためであって、「本当の目の前の物体」(=物自体)は、形も色も違うものかもしれないが、貴方が持つ「物を判別する能力」ではそれを捉えることができないんですよ、という話だ。まあ、何言っているか分からない方にものすごく乱暴に言うと、「目の前にある物体の究極的な原型形状」とでも考えてもらえばよい。ただ、それが本当に存在するかどうかは不明ではあるが。


これをいわゆる筆者や貴方自身に当てはめてみると『私自身』となる。『私自身』とはなんであろうか?そんなものはあるのだろうか?

やはり筆者や貴方では『私自身』を捉えらないのであろうか?このような問いは自己分析みたいなことと貴方は思うかもしれない。まあ似ているといえば似ているがちょっと違う。筆者はこのブログの読者である貴方が普段どんな風に過ごしているのか全くわからないので、筆者に置き換えて例え話をしてみよう。


心の対話 - もう一人(あるいは二人の)筆者


筆者を筆者たらしめているのは色々な要素がある。外見であったり、考え方であったり、所属であったり、住所であったり、趣味であったり。ただ、筆者が筆者であるのに重要な一つは、心の声だ。

「こうしたい、ああしたい。こう思う、ああ思う。」などと心の声が筆者には常にあり、その良し悪し(妥当性)をその都度その都度、もう一人の自分と決めている。筆者が車で渋滞に巻き込まれたとしよう。筆者の心の声はいう。仮に心の声が二人で構成されていたとして、それを「私A」と「私B」と名付けることにする。

会話例1

私A「渋滞だ。別の道の方が早く目的につくかも。」

私B「別の道は走り慣れてないし、天候不順だからもっと遅くなるかも。」

私A「(私Bに説得されて)そうだな、渋滞だがよく知るこの道に留まり安全運転でいこう。」

こんな感じの会話を何か判断が迫られる際に筆者は心の中で行っている。


この「私A」と「私B」を分析すると、Aはやや本能の声、Bはやや理性の声のような印象を持つ。では、さらにくだけた内容にしてみよう。

会話例2

私A「今、チョコチップシフォンケーキがすごく食べたい。」

私B「砂糖はダメ。おなかの調子がすぐ悪くなるでしょ。」

私A「そうだよね。」

このような筆者の例だとあくまで本能と理性が心の中で議論しているような感じになるのだが、実際の『私自身』は、この「心の中の二人の対話」聞いている「別の登場人物」かもしれない。

この「別の登場人物」は心の声を発しないので、本当にいるかどうかは分からないし、認識できない。一方で、普段は「私A」と「私B」が統合されたものを筆者は『私自身』と思い込んでいる。

貴方も筆者と同じように心の声を聞いているのだとしたら、貴方は「貴方A」と「貴方B」が『貴方自身』であると思い込んでいないか?貴方は「貴方A」がいつも同じように本能的な事しか言わないと決めつけていないか?「貴方B」は本当にいつも理性的な事しか言わないのか?

何が言いたいかというと、本当は「貴方A」の声がの方が理性的な声であって、「貴方B」はただ臆病なだけではないのかということだ。前回のブログで述べたことにつながるが、ある行動を起こそうとする時、あなたが「貴方B」の声を聞いて、その行動を取りやめたのなら、

 

”「貴方B」の心の声は、理性の名を借りて臆病な自分を誤魔化している”

 

可能性があるのである。

それでも「貴方B」が理性の声を代弁していると続けて仮定しよう。よく考えてみると「貴方B」は行動を抑制することが多い。だがこの抑制という機能のためには何らかの理由付けや基準が必要で、それは外部のルールや自分の経験則と言える。貴方が衝動的に何かを行いたいと思っても、それが社会のルールに照らして良くない事は「貴方の心の中で抑制」されなければならないからだ。

従って、「貴方B」が「貴方B」たらしめているものは、実は「貴方の経験」であったり「外部のルール」なのである。

つまり、「貴方B」は固定した考えをもっているのではなく、状況や時間に応じて理性の声らしき内容を変化させているのだ。となれば、もし貴方が「貴方B」の方針にいつも従っているとしたら、外の社会のルールや貴方自身の経験則に強く影響を受けた「抑制機能」が「貴方B」であるかもしれないということだ。

貴方の心の声(この場合は、理性の声を代弁している「貴方B」)は、実は『貴方自身』ではないかもしれないのに、心の声に従っていると貴方は思い込んでるかもしれないのである。


限界を決める「貴方B」


究極的に言えば「貴方B」は世間の声かもしれない。世間の声は貴方自身の心の声であるとして、自分があたかも理性的判断をしているかのごとく、出来ないこと、しないこと、言うべきでないことを「貴方A」に正当化していくのだ。「貴方A」が「宇宙飛行士になりたい」と思ったとしよう。あなたは30歳を過ぎており、ただの会社員なので、できるわけないと「貴方B」は言う。いや、「貴方B」だけでなく、貴方の周囲の実際の人もそういうだろう。「貴方A」が「会社を興したい」と思ったとしよう。「貴方B」は止めた方がいいと全力でリスクを列挙してその思いを否定する。上の例もどちらかといえば、失敗するだろうと容易に思われるもので、失敗の確率は高いであろう。

ここで思いだして欲しい。

本当の貴方は「貴方A」なのか「貴方B」なのか、あるいは「別の登場人物」なのかということを。

一般にリスクがあると言われている事は、まわりが本人に失敗してほしくないと願うから「リスクがある」と言われているのではなく、成功してほしくないという周囲の人の思いが、理性の声として「リスクがある」としていると筆者は思っている。

何故かというと貴方がある目標を設置しようとする時、その目標実現度にリスクがあっても、動きだせば、目標実現する可能性は1%以上になるが、動きださないと「0%」のままだからである。筆者は「貴方」ではないので、貴方がある目標を断念しようと止めようがない。だが、何が貴方自身の心の声なのかは一度研究してみてはどうだろうか?

貴方は「貴方自身」のコントロールをすでに失っていて、「貴方B」だと思い込んでいる「世間の声」に、貴方の大事な物事の判断権限を譲り渡しているかもしれないのである。

ドイツにおけるシャイな人達?

以前のブログ内容で述べた、「ドイツの国語の授業では発言能力が成績に反映される」という事を聞いて、ビックリしていた知人がいた。彼は筆者に「じゃあ、ドイツではシャイな人達はいないの?いるのであればどんな感じの人達なの?」と聞いてきた。なるほど、いい質問である。英語の“shy“に相当する単語はあるが、よく使われるのは“schüchtern“(シュヒタン)という単語である。訳としては、「引っ込み思案の、恥ずかしがりやの」で間違いなく、ドイツに住む日本人に対して、女性にも男性にもよく使われる言葉である。それとは別に使われる言葉としては”introvertiert”(イントロヴァーティーアト、内向的な)があり、“schüchtern“が、状況や男女関係などで使われることが多い一方で、“introvertiert“は性格そのものを表す。さてシャイなドイツ人はいるかと言うことだが、異性に対してシャイな人はいる。だが、「シャイな人」像がドイツと日本では異なるのではないかと筆者は思うのだ。

 

「シャイな人」も意見を言う


筆者個人の例で言えば、ドイツ人でシャイな人に実際に何度か会ったことはある。究極的にいえば日本とシャイな人の振る舞いに大差はないが、「知らない人でも質問を受ければ基本的に答える」という点で日本と異なる。それはやはり、知らない人とコミュニケーションを取ることに「恥ずかしい」「怖い」とか「不安」などの気持ちが日本のシャイな人達と比べて少ないためだと思っている。日本にいるシャイな人達には筆者が思うに大きく分けて二通りいて、対人という行為に不安を感じてしまう人と「コミュニケーションすること自体」に不安を感じてしまう人がいるのであろう。前者に関してはかなり心理的な問題であるが、後者に関しては、コミュニケーション能力や経験値が低いというよりも「コミュニケーションという行為が起こす自分や相手の感情の乱れ」という不確定要素に不安を感じているのではないだろうか。先に述べた「恥ずかしい」「怖い」とか「不安」の感情を乱す要素のうち、「恥ずかしい」という感情は、少し特別なものである。例えば、学校で先生から受けた質問に自分で手を挙げて堂々と間違えた答えを皆に言う。きっと彼/彼女は周囲から笑われてやや恥ずかしい思いをするだろう。そうすると恥ずかしい思いをしたくないので、手を挙げて発言すること自体に恥ずかしさを覚えていき、やがて発言そのものに恥ずかしさを覚える。しかしドイツでは授業で発言を強制される機会が多いので、発言すること自体に恥ずかしさを覚えることは日本と比べると少ない。これは筆者の偏見でもなんでもなく、多国籍な集まりで会議を行なった場合、ほぼ日本人以外は、求められていなくても自分の意見をいつでも言える心構えを持っている。その意見が全く的外れなものであっても、恥ずかしさなどはない。


恥ずかしがることによる周囲への甘え


日本でシャイな人達には恥ずかしいという態度で周囲に甘えているように思うことがある。「恥ずかしいから出来ない」とは日本でよく聞くが、ドイツではまず聞かない。「恥ずかしい」という言葉の訳は“peinlich „(パインリッヒ)だと思うが、この言葉は起こった事象に対する言葉であって、行動しない理由では使われないように思う。つまりドイツでは、恥ずかしいからではなくて「自分がしたくないからしない」と大抵の場合なるだろう。何が言いたいかというと、「恥ずかしいからできない」という行動様式を何回も繰り返すと、いざ必要な時に何もできなくなる危険性があるのだ。つまり、貴方の行動様式を悪い意味で消極的にするのである。なるほど、日本では察してくれる人もいるだろう。ただ他所の国ではどうか。あなたが長い列で何かを待っていた時、頻繁に割り込みを受けたら、「外国語を話すのが恥ずかしいから文句を言う事は出来ない」と思うのだろうか?恥ずかしいから道に迷っていても人に聞かないのだろうか?恥ずかしいから、皆が挨拶でハグしても-自分も皆と同じにしたくても-よそよそしく日本式の挨拶を異性の友人にしてしまうのだろうか?貴方が心の中でしたいと思う言動が明らかに誰に対しても迷惑となる場合でもない限り、貴方は恥ずかしいという言葉で、自分が勇気がなくて出来ないことを誤魔化しているだけなのではないか。シャイであることは、恥ずかしいから出来ないことの言い訳にするべきはない。「シャイな日本人」というドイツ人の評価は、外国語がうまく出来ないという事情を除けば、「メンタルが弱く自分の思いを相手に明確に伝えられない」という舐められた評価だと、ドイツに来て数年後、ようやく気付いたのであった。

「察する文化」から「語る文化」へ?(中島義道氏の著作から)

カント哲学者として著名な中島義道著に『うるさい日本の私』という本がある。
(1996年に出版されたこの本は、他の出版社からも発行されるほど読まれているので、
読んでいない方は是非一度読んでみてほしい。)

著者の中島氏は、”~にご注意ください”のような善意を元に街中で垂れ流されている自動音声に対して、モンスタークレーマーのごとく突撃する姿を自虐的に描いているのだが、
おぼろげながらその本で覚えているのは「察する文化」から「語る文化」への同氏の主張の部分だ。当時はなんとなく、筆者も共感していた主張であるが、ドイツに20年以上も住んだ今から見ると「結局西洋文化の押し付け?」に見えなくもない。

一方で、この著書は、いろいろな方に批評されている。特に注意を促す自動音声は、注意を促していないことに対する一般市民のクレームを恐れた「注意してますよというアリバイ作り」的な、日本社会の無責任の体質であるとの指摘をされていた方もいたように思う。なるほどそうかもしれないが、筆者から見ると中島氏の著作も上記の指摘も、もっと大事なテーマが見過ごされている気がして、腑に落ちない。

例えば、中島氏の言うように「語る文化」を推奨して、自動音声を止め、アルバイトで雇った人に直接言わせてみよう。何件かのケースにおいて、「どんな権限でお前がそんなことを注意するんだ?」と強く反論されてしまうのではないか?それを防ぐためにYouTubeに出ているような強面の喧嘩自慢の方をアルバイトに雇ったとしよう。その強面にビビらない人以外は、むしろ言われた注意に素直に従ってしまうのではないだろうか?実は割とドイツでは現実がこんな感じで、自動音声がない代わりにイカついお兄さんやお姉さんがきつい調子で他者を注意することが多い。筆者の実体験でいうとこんな事があった。コロナ全盛の時、ドライブスルーの検査場で筆者がコロナの簡易テストの順番待ちをしていたところ、前の車の女性がマスクをしてなかったらしく、検査場のお姉さんと揉めていた。ドイツ語のきつい調子を日本語に直すとこんな感じの会話であった。

検査場のお姉さん「今すぐマスクをしろ。」

前の車の女性「やだよ、意味ないじゃん。」

検査場のお姉さん「マスク無しなら検査しないから。ここから出ていけ、警察を呼ぶぞ!」

前の車の女性「・・・」

検査場のお姉さん「今すぐ出ていけー!!」*怒鳴る

バリバリの命令口調である。言われている女性も一歩も引かなかったが、とりあえず検査エリアからは車を移動させ、警察上等の態度で誰かと電話して待機していた。もちろんこれは割と極端な例だが、どちらも強い口調に対してある意味冷静というか、腹が据わっている。筆者の私見ではあるが、ドイツでは秩序を破るものに対して、注意する方はほぼ命令形の強い口調で伝え、それに対して、言われた方は太々しい態度で仕方なく従うか、無視、反論することが多い。いずれにせよ、「口調にビビりながらただ従う」というケースはほとんどお見かけしない。その代わりに激昂して掴みかかったりすることも少ないように思う。

中島氏は著者の宣伝で「戦う哲学者」と表現されていたが、「語る文化」を実現すると、常日頃から戦う覚悟(知らない第三者に物を申す覚悟)を持たなければならなくなる。だが、そもそも日本人社会は、そんなものが望まれていないのだ。上記の会話は、「緊張した・緊迫した」「怒鳴り合いになる可能性のある」または「物理的な喧嘩に発展する可能性のある」否定的な、-筆者が以前ブログで述べた-「ネガティブコミュニケーション」であり、そして、自動放送はそうした「ネガティブコミュニケーション」が持つ「緊張・緊迫」感を避けるために採用された、他者を出来るだけ否定しない日本文化の一側面なのではなかろうか。

逆に言えば、その文化に慣れ親しんだ日本に住む人は、緊張・緊迫状態に傾向的に弱くなっていると思うのだ。この「語る文化」の別の顔は、「言葉の戦いの土俵」であり、切った切られたとまではいかなくとも、1体1で行うボクシングやテニスなどのスポーツに似ている。つまり天才でもない限り、試合の経験値が物をいう土俵である。したがって、ドイツに住む人達は、緊迫・緊張状態にも比較的慣れているがゆえに、怒りに対しても、やや冷めている。それに対して、筆者自身もドイツ人によく指摘されるが、日本人は一度衝突すると持続して根に持ちやすい。そういう人間をドイツでは「エレファント(象)」と表現し、やや蔑まれる。もし貴方が誰かと衝突したら、その時は怒ってもいい。ただ、時間が経っても貴方が相手に怒っているのは、それはもはや怒りではない。貴方の意地であり、非建設的な恨みのような感情だ。だから、もし誰かと -特に親しい人と- 意見が衝突した時は、言い方とか、タイミングに注意を払わず、「相手の言うことが客観的に正しいか?」という点に重きを置いて冷静に判断してみよう。貴方の怒りも少しは治るはずだ。そして、「語る文化」が持つ「ネガティブコミュニケーション」の側面を、貴方がより意識できれば、今後は緊張や緊迫状態に冷静に対処できるかもしれない。「語る文化」を推奨するならば、そのような「日独の土俵の差」を最初に教えてもらいたかったと筆者は今になって思うのであった。

マスクをしない論理

先日、大学のドイツ語授業にお邪魔した際、マスクをするかどうかの確認を受けた。講師の方はドイツ人であり、あたり前のようにマスクをしない派であった。マスクをするorしないに関しては、Youtubeか何かで特集を見た覚えがある。特に欧州人は何故マスクを嫌うのかということに対して、欧州人は「口の動き」を見てコミュニケーションを行い、日本人は「目を見て」コミュニケーションを行うから、との解釈であった。そういう側面は確かにあるだろう。ただ、あまり筆者には腑に落ちない解釈であった。そこで、マスクの着用是非に関して、ドイツ人の友人に直接聞いてみることにした。「何故そこまでマスクを嫌うのか?」と。

返ってきた答えは「マスクだけを嫌うというより、間違った政府の政策に従うのが嫌なんだ。コロナの時、ロックダウン政策がいかに簡単に基本的人権を奪ったか。当時のドイツ与党や保健省(厚生省みたいなもの)のコロナ対策や方針に嫌気が差して、右翼政党(AfD)に投票しようと思ったくらいだ。1920年代のナチス台頭前の雰囲気がなんとなくわかる。マスクをするしないは、-アクティブに人を害することがない限り- 個人の自由であるべきだ。」との強い主張を頂いてしまった。うーん、これは根深い。その意味では、あたかも日本人は「何も考えずに政府の(マスクを推奨する)政策に従っている愚か者達」であるような批判に聞こえなくもない。最初に引用した講師の方によれば、“日本でマスクをしている人が多いのは、他者を尊重しているからではなく、「マスクをしない人間は非社会的である」とした「社会の同調圧力」に従っているだけだ”との見解であった。

同調圧力とは、多数の意見や考えに少数が従わなければならないとする集団内での無言の圧力であるが、貴方がマスクをしているのももしかしたら、本当は貴方の意志ではないかもしれない。ことによると、マスク着用以外のあなたの行動の多くも同調圧力によるものかもしれない。ではどうすれば貴方の判断や行動が同調圧力によるものではないと区別できるのか?それは外国に行けば良い。例えばマスクに関しては、マスクをしない人が大多数を占める国に行っても、貴方が自主的にマスクをしたがるかどうかで判断出来る。同調圧力とは特定の集団内で形成されるので、別の集団内では同様の同調圧力としては機能しない。筆者個人の経験で言えば、バカンス先で買ったお土産を友人に渡す行為は、ドイツに在住していても自発的に行ったので、「日本文化としてのおもてなしの心」は同調圧力によるものでないと実感できた。

 

これら一連のことを考えると哲学者のカントの定言命法を思い出す。


“汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ”

あえて意訳すれば、『貴方の意志の判断基準が、全ての人々がどのような状況下に置かれても正しいと考える基準となるように行動しなさい。』


してみるとマスクをしない論理は、正しいのであろうか?

他者への尊重

以前、筆者には年上の女性の知り合いがいた。仕事を経由した友人としての付き合いで、-とある理由で今はもう交流がないのだが- 当時気付かされたことがある。その人は非常に面倒見がよく、困っていると助けてくれるのだが、頼み事も多い人であった。ある時、その人からの頼み事があまりにも面倒であったので断ったところ、「私は貴方にこれもあれもしてあげたよね?」と断った筆者を批判してきた。つまり、彼女の人助けとは、B/S表のように借りたり、貸したりするもので、金額が同じ値でなければならないものであった。「情けは人のためならず」という言葉は、情けを貸し出し続ければ、いつかは返済されるというわけである。別にこの考え方が悪いわけではない。よく考えてみれば、筆者も世話をしてあげたことに対して感謝がないと腹が立つこともある。そう言う意味では、日本人が行う「人への世話」というのは、感謝であれ、お礼であれ、お世話であれ、何らかの「見返り」が期待されている。


これは他者への尊重、いわゆる「思いやり」にも当てはまるのではないか。日本社会で行われている思いやりの交換は、平たく言えば、自分を尊重してもらいたいがために他者への尊重を先払いしているように思える。筆者とその友人は、1対1の知人間で行われた「お世話」の交換だが、1対不特定多数の場合で自分が不特定多数から尊重されたいのであれば「自分から率先して」他者を尊重する必要がある。電車で静寂を得たいのであれば、自分から静かにしなければならない。これが日本の優れた秩序の一端であり、「恩=お世話=思いやり=尊重など」が、有形無形の通貨システムのように機能している。厄介なのは、その「お世話=思いやり=尊重など」に「好意、下心」などが混ぜられている場合だ。女性が他者からのお世話やプレゼントに敏感なのは、それに対する見返りが、その女性にとって「割に合わない=等価ではない」とされるからで、拒絶に遭いやすいのはそのためだ。逆に女性の行為に対して、見返りのお世話などが不足している場合は、それは異性への怒りに変わる。もしこの通貨システムに貴方が思い当たる節があるのならば、筆者は今すぐ「無償の施しの覚悟」をおすすめしたい。支払った通貨への見返りが得られず、それを他者への怒り(悪意)で補うくらいであれば、最初からお世話をしないとか、見返りを期待しない「無償の施しの覚悟」を持つべきである。これで貴方の心は穏やかになること間違いなしだ。


ではドイツ人はどうなのかというと、ドイツ人も似たような感じはあるが、必ずしも見返りを期待しているわけではない。キリスト教の影響もあるだろうが、無償の施しの覚悟もある。ただ友人間では、それなりの感謝の表明は必要だ。では1対不特定多数の場合どうなのか? 日本のような、乱暴に例えるなら「思いやりの通貨システム」などというべきものは存在しない。個々人の価値観があまりにも違いすぎる上に個人の自由意思が尊重されるからだ。ルソーの『社会契約論』は、(筆者のこのブログのように)思いついたから書かれたものではなく、「社会とって必要」だから書かれたのである。欧州、特にドイツは「私の意思は -それが私から見て不適当や害悪であると判断されればされるほど- 社会秩序や法律に優先される」と思っている人達の集まりなのである。そういう社会だからこそ「自分の意見を言う能力」は必須となってくる。社会秩序に対して、不平がないと言うことは、「それに同意したとみなされる」のである。


したがって、自分の意見を言う能力を「思いやりの通貨システム」のある国に何も考えずに導入すると、システムの利益だけを享受して他者を尊重しない人間を作り出してしまう可能性がある。


両方の文化のイイドコ取りは、なかなかうまくいかないようだ。

自分の意見を言う能力

皆さんは„Selbstbewusst“(ゼルプストトベヴスト)というドイツ語の単語をご存知だろうか?辞書やネットで調べると「自信のある」とか「自己の確立した」などと出てくるが、そもそもドイツ語を知らない人達には、その言葉の訳すら縁がないだろう。

どちらの訳もやや問題があることは、すでに多くの方が指摘しているが、とにかく非常に訳しにくいのだ。というのも、日本語の「自信」という言葉が「ある」と言う言葉と結びつくと、「自信過剰」という熟語が想起されやすく、また後者の訳では「自意識過剰」、あるいは„Selbstbewusstsein“(ゼルプストべヴストザイン)という名詞の訳である「自意識」「自己同一性」という心理学的、哲学的用語の印象が強くなってしまう。

いずれにしても、容姿や能力に自信のある人を「あの人はゼルプストべヴストだ」というのだが、これはドイツではどちらかと言えば肯定的な評価であるのは間違いない。

しかし筆者は、この「ゼルプストトベヴスト」という言葉にあえて容姿に関係する訳を省いて「自分の意見を言える」「自分の意見が確立した」という訳文を当てたい。


というのも、「自分の意見を述べられること」はドイツ社会において -また多くの欧州社会において- 「社会的要請」となっているからである。


恐ろしいことにドイツの国語(つまり母国語)の授業では、小学校高学年から自分の意見を言える能力のレベルが「成績に反映される」。つまり、国語の授業で発言できないものは、成績がマイナスになるのである。ドイツという国は声を上げないものが不利益を被る社会なのだ。筆者はそれを体験として学んでいるので、こんな話をしよう。


もう20年ほど前のことだ。某ハンバーガーチェーン店に行って、とあるメニューを頼んだ。そのメニューでは普通のポテトではなく、皮付きのポテトが選べるので、それを強調してテイクアウトで注文した。しかし筆者を担当した店員は普通のポテトを袋に入れてきた。そこで筆者が「注文したのは皮付きポテト!」と指摘すると店員の彼はこう言うのだ。「だってもう用意しちゃったし。」筆者の内心で(いやまて、それお前が間違えたからだろ...)とツッコミを入れつつ、(まあ、もう普通のポテトでいいかぁ...)と妥協しかけた。しかしまさにこの瞬間、筆者の体にある種の雷が走った。いや、心の中でもう一人の筆者が強く語りかけてきた。「お前このまま流されるのか?ドイツでずっとそういう風に生きていくつもりか?」と。


そうなのだ。この時までいろんなことがあった。筆者がICE(ドイツの新幹線)に乗ると、予約した席にすでに人が座っていたりとか、電話の工事がアポ通りの時間に待てども待てども来ないとか、階下のアパートで朝5時までディスコパーティが開かれて寝れないとか、些細な、しかし確実に精神にダメージを与えてくれる「不都合や迷惑」である。


それがフラッシュバックのようにハンバーガー屋で思い出され、店員に筆者はこう伝えた。「俺が注文したのは皮付きポテト!」と。その店員は「チッ」と言って謝りもせず、しぶしぶ注文品を持ってきた。この日以来基本的に筆者は自分が被る些細な迷惑には、キチッと反論するようにしている。


幸いにして、多大な迷惑というものを第三者から被ったことはほとんどないが、もし貴方が何らかの多大な迷惑を外国で被った際に、貴方は「言葉が喋れないから」とか「自分が我慢すればいいだけだから」と自分を納得させられるのだろうか?そのやり方が日本で通用している(ように見える)のは、皆が我慢している(ように感じられる)からだ。貴方の子供や配偶者が不利益を被っていても、貴方は「我慢して」と言い続けるのだろうか?


外国語を学ぶ際に、「自分の意見が言えないと不利益を被る」可能性については誰も言及してくれない。某漫画で強調されているように「世間は、肝心な事を何も教えてくれない」のである。日本の高校までの教育では、「自分の意見を口頭で言う能力」を基本的に重視していないのは、それが反抗的な態度に解釈されやすい、つまり教師に従順でない印象を与えやすい面もある。ただ、皮肉なのは、その能力が大人になれば急に必要になることだ。日本の社会では、文章で自分の意見を言えれば口頭での能力はそこまで要求されないが、貴方が出世すればするほど「大勢の前で意見を求められる機会」が多くなる。


だからと言って、筆者は「日本はもっと自分の意見を言えるような教育をすべき」とは一概には思わない。(欧州の言語学習では必要と思っているが)

と言うのも、この「自分の意見を口頭で言う能力」は、日本の美徳である「他者への尊重」と根本的に合わないと思っているからだ。次回はこの「他者への尊重」文化について、もう少し筆者は考察していきたい。