bleibt_laenger’s blog

日独比較文化などなど

他者への尊重

以前、筆者には年上の女性の知り合いがいた。仕事を経由した友人としての付き合いで、-とある理由で今はもう交流がないのだが- 当時気付かされたことがある。その人は非常に面倒見がよく、困っていると助けてくれるのだが、頼み事も多い人であった。ある時、その人からの頼み事があまりにも面倒であったので断ったところ、「私は貴方にこれもあれもしてあげたよね?」と断った筆者を批判してきた。つまり、彼女の人助けとは、B/S表のように借りたり、貸したりするもので、金額が同じ値でなければならないものであった。「情けは人のためならず」という言葉は、情けを貸し出し続ければ、いつかは返済されるというわけである。別にこの考え方が悪いわけではない。よく考えてみれば、筆者も世話をしてあげたことに対して感謝がないと腹が立つこともある。そう言う意味では、日本人が行う「人への世話」というのは、感謝であれ、お礼であれ、お世話であれ、何らかの「見返り」が期待されている。


これは他者への尊重、いわゆる「思いやり」にも当てはまるのではないか。日本社会で行われている思いやりの交換は、平たく言えば、自分を尊重してもらいたいがために他者への尊重を先払いしているように思える。筆者とその友人は、1対1の知人間で行われた「お世話」の交換だが、1対不特定多数の場合で自分が不特定多数から尊重されたいのであれば「自分から率先して」他者を尊重する必要がある。電車で静寂を得たいのであれば、自分から静かにしなければならない。これが日本の優れた秩序の一端であり、「恩=お世話=思いやり=尊重など」が、有形無形の通貨システムのように機能している。厄介なのは、その「お世話=思いやり=尊重など」に「好意、下心」などが混ぜられている場合だ。女性が他者からのお世話やプレゼントに敏感なのは、それに対する見返りが、その女性にとって「割に合わない=等価ではない」とされるからで、拒絶に遭いやすいのはそのためだ。逆に女性の行為に対して、見返りのお世話などが不足している場合は、それは異性への怒りに変わる。もしこの通貨システムに貴方が思い当たる節があるのならば、筆者は今すぐ「無償の施しの覚悟」をおすすめしたい。支払った通貨への見返りが得られず、それを他者への怒り(悪意)で補うくらいであれば、最初からお世話をしないとか、見返りを期待しない「無償の施しの覚悟」を持つべきである。これで貴方の心は穏やかになること間違いなしだ。


ではドイツ人はどうなのかというと、ドイツ人も似たような感じはあるが、必ずしも見返りを期待しているわけではない。キリスト教の影響もあるだろうが、無償の施しの覚悟もある。ただ友人間では、それなりの感謝の表明は必要だ。では1対不特定多数の場合どうなのか? 日本のような、乱暴に例えるなら「思いやりの通貨システム」などというべきものは存在しない。個々人の価値観があまりにも違いすぎる上に個人の自由意思が尊重されるからだ。ルソーの『社会契約論』は、(筆者のこのブログのように)思いついたから書かれたものではなく、「社会とって必要」だから書かれたのである。欧州、特にドイツは「私の意思は -それが私から見て不適当や害悪であると判断されればされるほど- 社会秩序や法律に優先される」と思っている人達の集まりなのである。そういう社会だからこそ「自分の意見を言う能力」は必須となってくる。社会秩序に対して、不平がないと言うことは、「それに同意したとみなされる」のである。


したがって、自分の意見を言う能力を「思いやりの通貨システム」のある国に何も考えずに導入すると、システムの利益だけを享受して他者を尊重しない人間を作り出してしまう可能性がある。


両方の文化のイイドコ取りは、なかなかうまくいかないようだ。