bleibt_laenger’s blog

日独比較文化などなど

ネガティブ コミュニケーション?

先日、日本に帰国した際、出身大学のドイツ語会話の講義に参加させてもらった。学生の皆さんは、講師の後に倣って、ドイツ語の発音を熱心に繰り返していた。

Die Kirche -  "Die Kirche!!"

Der Bahnhof - "Der Bahnhof"

どれも基本的な単語と例文だ。


主に観光の際に使う実践的なドイツ語が多かった印象だが、その例文の内の一つに以下があった。

 

„So, was machen wir jetzt?“

発音 「ゾー、ヴァスマッヘンヴィアイェッツ(ト)」

訳 「それで、これからどうする?」


返答 「我々は(博物館)*に行く。」

*ここにさまざまな目的地の単語を挿入するのが学生課題。


学生への参考例として、この文章が録音された音声で教室内で再生された際、特に“ゾー、ヴァスマッヘンヴィアイェッツ?”の文章のトーンに私が感じたのは、ある「違和感」である。意味的にはあくまで「それで、これからどうする?」なのではあるが、そのドイツ人の発声トーンはむしろ、「期待していた予定なり目的の目処が立たなくなってしまった」時の、批判めいたトーンに極めて近いものであった。いわば、「なにかイラっとしたような感じ」であり、決して「これからの予定にワクワクしている」というトーンではなかった。(私見ではあるが)


このようなことは他にもある。

例で言うと

„Es geht nicht“

発音 エスゲートニヒト

訳 「無理(できない、上手くいかない)」

がある。


これを語学の授業の練習のように日本語的に「エスゲートニヒト」と平たく発音すると、聞いたドイツ人は何かの固有名詞かと思ってしまうだろう。

あるいはその逆にドイツ人がそれを大声で発音すると、意味的には「無理(できない)って言ってんだろ!!」と大抵は解釈される。

何が言いたいかというと、我々がコミュニケーションを実際に行う場合は、喜怒哀楽が含まれるのはもちろん、両者間のコミュニケーションの継続そのものが「常に問われている」のである。


これは日本語学習者にも同じことが言える。

日本語を軽く勉強した外国人が、その辺にいる若者に「駅は何処デスカ?」と日本語で聞いたとしよう。大抵の場合、丁寧に答えてくれるとは思うが、少し運がない場合は、

「ウザッ」と、少々キツイことを言われるかもしれない。そしてそれを外国人が「スミマセン、もう一度お願いシマス。」などと聞き返したとしよう。そこで「知らねーよ!」と、強い否定の感情を乗せられたコミュニケーションの拒絶に初めて直面してしまう可能性さえあるのだ。

思うに大抵の外国語学習では、本来生きた言葉は、さまざまな感情(その他)が含まれていることが忘れられている。

知らないもの同士でコミュニケーションが行われた場合、-特に一方が母国語話者でない場合はなおさら- 外国語学習ではあまり教えてもらえないネガティヴな会話の流れ、言わば「ネガティヴコミュニケーション」とも言うべき事態に、時前練習もなくいきなり現地で遭遇してしまうのである。


語学の授業や教科書の中で、どこまで学生の面倒を見るべきなのかは、教える側の人達の判断や方針にお任せしたいが、文章に含まれる言外の意味は、もっと学問として体系的に整理されるべきではないか、と思う今日この頃である。